田中氏のフィールドノートに見る危機

  田中恒司氏は、戦前から赤城山を中心に群馬県内の動植物やチョウの研究を続け、活動の様子を記録した多くのフィールド・ノートを残されています。





 中でも活動の中心としたのは、赤城山西麓の見間入、深山、永井、久呂保などでした。当時の交通手段は、鉄道のほかは徒歩によることが殆んどだったと思われますが、前橋から敷島まで自転車で行った記録も残されています。





 1940年(昭和15年)に上越線敷島駅からさほど遠くない見間入(みまいり)でヒメギフチョウの大飛翔に出会っています。

 



 最初の日に採集したチョウの標本。

 しかし、昭和40年前後から、ヒメギフチョウは殆んど見られなくなってしまいました。昭和40年5月2日のノートには、深山から見間入、敷島村旧役場まで調査して、「ヒメギフの飛翔を見ず。見間入附近・・・うすばさいしんを見ず。かつての撮影地帯・・・いばらの道に  とうりにくし」 と記録しています。

 昭和42年のノートには、「5.3 快晴 深山方面 ・あるべき気候なるにヒメギフ一頭も見
ず ・ウスバサイシン・・・かなりあるも卵を見ず」
と記され、この年を最後に、深山では完全に消滅したと考えられるようになりました。
 

 そして、昭和46年のノートではとうとう、見間入や深山と並んで多くのヒメギフチョウの飛翔が見られ、昭和44年まで確認されていた久呂保において久呂保谷の ヒメギフ 絶滅の感ありと下線をつけて記録せざるを得なくなってしま いました。

 田中氏のフィールド・ノートからは、昭和44年4月28日に久呂保で成虫1頭を確認したのを最後に、県内でのヒメギフチョウの生息を確認できなくなったことが分か ります。久呂保での最後の調査は、1973年(昭和48年)4月14日でした。