赤城姫の思い出         大 橋 健 司

 私が蝶に興味を持ったのは、小学校5年生か6年生の時に国語の教科書で「キタテハの冬越し」と云う題名の観察文を読んだのが、きっかけだったと思います。
 母校桐生市立北小学校は、岡公園(動物園)や吾妻公園(植物園)が近くにあり、当時の小学校の周囲は、北側と東側がカラタチの垣根があり、校内にもクスノキが多く植えられた良い環境で、アゲハ類は沢山見られました。また、同級生の親友の山崎君が蝶の図鑑を持っていて見せてくれて、その中のゼフィルスには、日本にもこんな蝶が居るのかと、おおいに関心をもち、さんざ探し回って岡公園(現在の遊園地の駐車場付近)で、オオミドリシジミを採集した思い出があります。
 蝶の採集を本格的に始めたのは20代の後半です。マイカーを持てる身分になり、初めは目的も無くあちらこちらとドライブをしていたが、ある夏、八ヶ岳まで足を伸ばし、麦草峠付近に車を停めて付近を歩いていたら、道路上にクジャクチョウが鮮やかな色の翅を開いていた。その他にもシータテハなど、低山では見られなかった蝶を目にした時からは、蝶の採集と云う目的を持ったドライブが始まったのです。
 始めはやはりゼフィルスの採集で、赤城山や榛名山が主な採集地でした。そのうち県内の利根郡や吾妻郡まで足を伸ばしましたが、現在の様な情報源も少なく、またあってもそれを知らずに、一人でゼロから始めたので、初めて採った蝶が普通種なのか珍品なのかも判らないで、その都度、図鑑を見て勉強する状況でした。
 その頃の成果としては、197688日に吾妻郡六合村大原で、ゴマシジミ1♀を初採集したのをきっかけに、吾妻郡長野原町浅間隠山々麓の鷹繋草原のゴマシジミの産地を独自に見つけました。また、1979725日に赤城山麓の勢多郡粕川村室沢で、クロシジミを初採集しました。
 県外に足を向けたのは、やはりギフチョウ・ヒメギフチョウでした。その頃市の図書館で、日本産蝶類大図鑑と云う分厚い本を見つけて開いて見ると、種類毎に産地別の多数の写真、別誌の図版解説の方には、その写真の蝶の採集記録が記入されていたので、たいへん重宝しました。それとともに記録を残す事が大事なのだと思いました。その採集記録によれば、ヒメギフは2♂♂2♀♀の群馬県勢多郡赤城山 18,W,1964の記録とともに、「すでに絶滅してしまっている」との記入があり、残念に思いました。
 長野県飯山市黒岩山には、両種を産する記録があり、行ってみましたが、知識も経験も無いのでどんな所に生息するのかも分からずに、ドライブをしただけで終わりました。後日、方向を変えて長野県諏訪郡富士見町より入笠山に上ったところ、幸運にも地元の諏訪市でラーメン店を開業していると言う人に出会い、ヒメギフ発生地の小黒川まで案内していただいて、5♂♂2♀♀を採集することができました。197959日がヒメギフの初採集日で、そこは標高1600m以上の所でした。
 翌年19804月は下高井郡下高井村に行きましたが、やはり発生地が分からずに帰り、512日に再び入笠山に行き、小黒川まで歩きました。去年の場所へ行ったつもりだが、迷ったのか見覚えのある場所には着かず、ヒメギフも見つからず、来た道を戻りました。無事に車まで辿り着いて帰路に着きましたが、暫く走ると道路上にヒメギフが飛び出しました。この時は車にカメラを積んでいたので撮影を優先して、ヒメギフが砂利道の上で翅を開いて日光浴しているのを、数枚撮影してから3♂♂4♀♀を採集しました。
 次はギフチョウです。1981328日、朝430分出発で静岡県富士郡芝川町の桜峠へ向かう。東松山I.Cより川越までは高速を走り、国道16号で八王子まで行き、そこから中央高速に乗って大月より河口湖に向かい、I.Cを出て本栖湖を過ぎて、桜峠に10時前に、到着しました。現地は曇天でまだ桜の花も咲いていない。1230分まで峠を中心に周囲を歩くが、なんの成果も無く帰路に着きました。
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22日は新潟方面へ向かう。当時、高速道路はまだ開通していないので、朝4時に起きて出発しました。三国峠のトンネルを抜けてから小千谷あたりまでは田畑に残雪が50cm程度あり、まだ早いかなと思いつつ国道17号を北に進み、長岡まで来ると雪はほとんど残っていない。弥彦山はかなり遠かったが、9時頃には到着しました。入り口に弥彦スカイライン看板があり、舗装道路を暫く走ると道路上に、ギフチョウらしきものが落ちていました。車を停めて確かめるとやはりギフチョウで、飛翔中に車に撥ねられたのだろうか、摘み上げようとして触ったとたんに飛び出した。まだ生きていたのだ。慌てて車に戻りネットを持ち出し、追いかけて採集しました。翅は少し破損していたが、新鮮 個体でした。
 道路の両側は杉の植林地で、背丈ほどの杉の木が規則的に植えられて、その間は下草も低くて歩きやすい。カタクリの花も所々に咲いていて、数分歩いただけでギフチョウが飛んで来て、難なくネットインする。これも新鮮な♂で、その後も間を置かずに数頭の飛び回るギフチョウが現れて、次々と採集できる。ヒメギフの時と比べると楽な採集でした。足元を見ると食草のカンアオイらしい植物も生えているが、硬い古い葉なので、これは去年生えたものが枯れずに残っているらしい。よく見るとまだ小さいが新芽も少し生えていて、このような環境がギフチョウの発生地らしい。数箇所を移動して、10♂♂1♀を採集しましたが、発生初期らしくほとんどが新鮮 個体でした。帰ってから植物図鑑を探して確認すると、弥彦山で見た植物はやはりギフチョウの食草のカンアオイでした。
 ヒメギフの食草のウスバサイシンも、その前年までは見たことがなかったので、赤城山に行けば見られるかも知れないと思い、勢多郡赤城村深山の山中を探し回った。自生地を見つけたのは1980年の5月中旬でした。今頃ウスバサイシンは芽を出しているのかなと、確認のために再び深山へ出かけたのは、翌 年の1981426日でした。
 ウスバサイシンの自生地に着いて観察すると、やはり発芽はしていましたが、まだ小さな葉で、群落も去年見た時よりも小さく見えました。他にも群落はないかと歩き回っていると、ネットを持った二人の男と出会いました。「どちらから」と私が尋ねると「桐生です」と返答され、驚きました。今まで山で数人の採集者に出会ったが、桐生市の人はこれが初めてでした。

 これが、私と鈴木さん、小林さんとの出会いで、小林さんは足利市在住だが岐阜県の出身で、このベテランの二人にはその後いろいろと教えてもらう事になります。このとき二人は、「赤城山でヒメギフが採集された」という情報を聞き、調査に来ていたのです。その日は三人であちらこちらと見て回ったが、収穫はありませんでした。
 52日、三人で一泊予定で、白馬方面のギフチョウ採集に向かう。午前215分出発で7時には白馬村着。細野のジャンプ台付近を見てから、みそら野別荘地へ行く。別荘地一帯がポイントと云うことだが、時間もまだ8時と早く、発生時期としてもまだ早いらしく収穫なし。930分頃そこを出発して、1030分頃糸魚川市の西山部落へ到着した。始めの1頭は小林さんが採集して、その後はしばらく現れず、1時間後くらいにやっと1頭採集する。発生初期の新鮮 個体で、弥彦山と比べるとすこし小型で形の良いギフチョウでした。
 小林さんはその後少しは採集したようだが、鈴木さんはぜんぜんだめなようで、12時を過ぎたので昼食のため車の方に戻る。途中で運よく1頭採集できて、2♂♂が本日の成果。午後になると曇ってしまい、ラジオの天気予報は下り坂。宿も予約してないので、一泊の予定はやめて、早々に日帰りの帰路につきました。
 53日、昨日の疲れもあり9時頃に起床。朝食を済ませて外を見ると、薄日が射している。外に出てみると意外にも天気は好い。しかしこの時間からでは遠くには行けないと思い、赤城山の様子を見てくるかと、930分出発して深山には1時間程度で到着しました。
 沢の右側の道より林道に入る。先週、二人と出会った場所を見ながら奥へ入り、途中の分岐路を直進して暫く進むと、チェーンが張ってあって進めないので、車を降りて暫く歩く。コツバメ、ミヤマセセリ、キベリタテハ、スジグロシロチョウなどが飛んでいるが、ヒメギフの気配はなく、再び車で分岐路まで戻って右折して進み、当時はまだ無かった現在のキャンプ場を過ぎて、鈴ヶ岳の登山道方面へ向かう。先週三人で来たときは入らなかった道で、去年来た時よりも登山道は整備されていました。こちらの道はチェーンが外されていたので、車でさらに奥へと進むが、車道が終わり登山道となったので、Uターンして来た道をゆっくりと周囲の様子を見ながら戻り、現在のキャンプ場付近まで来た。その時、右側のカラマツ林の中より、小形のアゲハが飛び出した。慌てて車を止めほとんど条件反射で、ネットを取り出し追いかけて、難無くその蝶をネットインした。 
 まさかと思いながら震える指先でネットをたぐり、確認するとそれは確かにヒメギフで新鮮な♂でした。車を路肩に寄せてその付近を中心にすこし歩き回ったが、時計を見ると既に12時を過ぎていたので、いったん山を降りる。麓の食料品店でパンを買い、ついでに公衆電話で鈴木さんに報告して、再び山に向かうが、2時頃には曇天になり、2時半頃にあきらめて山を降りる。結局その日はその1頭だけでした。

 翌日の4日はあいにくの雨で、5日は晴れ。小林さんは仕事で同行できず、鈴木さんと二人で830分に出発。現地へ向かう。私は林道に沿って上下に往復していたが、鈴木さんは林の中に入って探し回る。ヒメギフはなかなか見つからない。ウスバサイシンは密度は薄いがあちらこちらに生えている。暫くすると鈴木さんが卵を発見した。見せてもらうと、ウスバサイシンの葉裏に十数個の緑色の小さな真珠のような卵が産み付けられていました。これで、この周辺でヒメギフが発生している事が、確実になりました。
 林道の奥まで入って探すが、食草はまばらにあるが卵は見つからない。30分程で元の場所に戻ると、すぐにヒメギフが飛び出したので、採集すると♂でした。鈴木さんは尾根へ登るが、私は飛び出した場所を中心に、林道上を上がったり下がったり。その後は1時間以上も、1頭も出ず。12時になったので、昼食のために合流すると、鈴木さんは林の中で、2♀♀を採集していた。昼食は、鈴木さんが採集した場所で食べることになった。そこは谷状の地形で、伐採後に植林されて開けた場所でした。カラマツ林の林辺で開けた場所に向かって昼飯を食べていると、ヒメギフが飛び出した。慌ててネットを持って追いかけるが、取り逃がす。しかし、そこは蝶道になっているのか、またヒメギフが飛んで来た。そこで二人で数頭を採集して、合計4♂♂3♀♀の成虫。さらにカラマツ林の林辺で約30卵を採集して下山する。

 510日、小林さんも加わって三人で深山に向かう。天気は小雨のち曇り一時晴れの変わりやすい天気。成虫はあきらめて、100卵と上限を決めて3人で採卵を行う。ウスバサイシンはこの5日間で生育が良いのか、範囲も広く密度も高くなったようだ。1枚のウスバサイシンの葉裏より12卵から15卵程度の卵槐を見つけ、合計7枚、約100卵を採集した。下山してから、2卵槐の27卵を受け取って飼育することになった。
 当時の飼育記録では、早いものが5/16に孵化を始め、5/212齢、5/243齢、5/25には4齢となり、5/305齢(終齢)、6/9に前蛹、6/12に蛹化しています。

 採集した赤城山のヒメギフを展翅して、入笠山のヒメギフと並べて見ると、初心者の私にも違いが判る。しかし、これは本物の赤城山のヒメギフだろうかと、疑問がわいてくる。「幻の蝶」と云われてから、10年〜20年と聞いていたので、我々の目の前に飛び出したヒメギフは、いったい何処から来たのか。誰か他産地のヒメギフを放蝶したのか。それとも、人目に触れない山中で細々と生息してきたものが、環境の好転で生息地を広げて現れたものなのか。
 我々は昔の標本と比較するのが間違いないと思い、鈴木さんの高校生の頃からの蝶の先生で、職業も小学校の先生である山田昭二さんを訪ねることにする。これまでにも山で出会った採集者に、桐生から来たと言うと、「山田先生のグループですか」とたびたび聞かれ、山田先生と呼ばれる人を中心に、蝶の仲間が桐生市に存在するのは知っていました。鈴木さんもその一人です。おなじ桐生市に住んでいて、一人で蝶の採集をしている私を先生に紹介すると云う事になりました。
 初対面の先生は、にこやかな顔をした温和な人でした。どんな自己紹介をしたかは覚えていませんが、鈴木さん、小林さんとの深山での出会いの話から、話題がヒメギフに移行するのは自然の成り行きでした。もちろん採集したことは三人の秘密でした。先生は快く写真撮影に応じてくれました。
 先生も写真には力を入れていると云う事で、室内には写真撮影用の照明も用意されていました。標本箱の中には「群馬県赤城村深山」のラベルで3頭のヒメギフが、他産地のヒメギフとともに並べられていました。それは我々の採集したヒメギフと多くの点で共通の特徴を持っていて、この時点で我々の採ったヒメギフは、本物の赤城山のヒメギフだというある程度の確信を持ちました。
 先生の話によると、昔、赤城山に歩いて登った時代には、大沼の周囲にウスバサイシンがたくさんあり、ヒメギフチョウも山のいたる所でたくさん飛んでいたとの事です。また、「赤城山には、ヒメがいなくなった」と言い、ヒメギフ、ヒメシロ、ヒメシジミ、コヒョウモンモドキなど、昔、たくさんいた蝶が、今は、見られなくなった事を、嘆いていました。(*昔ヒメシロチョウは、深山にいたと云う話を聞いています。ヒメシジミは赤城山麓の東北部で、2005年現在生息を確認している。)
 ヒメギフ健在のことを先生に告げたのは一年後の事ですが、その後の調査で、思ったより生息範囲は狭く保護の必要を感じました。山田先生ら有志が、保護されるように各方面に働き掛け尽力された結果、ヒメギフチョウは19863月、群馬県の天然記念物に指定された。それと同時期にこれまでの研究成果をまとめられて、1987年に「桐生市 みどりと花の会」より『桐生蝶類誌』を発行されました。また、19894月に開園した「桐生自然観察の森」の建設も、山田先生の指導により進められ、開園後も観察会の現場に来られ、レンジャーの育成などに務められましたが、19905月に病気のため63歳で亡くなられました。定年の数年前に教職を辞められて、精力的に上記のような仕事をこなされたのは、寿命を悟られていたのでしょうか。
 奇しくも赤城山のヒメギフ再発見の頃、藤岡市では30代の若手の蝶愛好家十数名が集まって「群馬愛蝶会」が発足しました。会長の生田氏その他の会員が結束して、会誌『乱舞』の発行や、連絡誌の「愛蝶ニュース」などを出して、精力的に活動を始めた。私と鈴木さん、また鈴木さんの以前からの虫友達の池田氏も、この頃伊勢崎市に転勤してきたので、19851月に、三人そろって入会しました。この頃より、蝶以外の虫の専門家も続々と入会してきたので、「群馬昆虫楽会」と改名して、私も副会長になったがあまり役には立てませんでした。
 入会以前、生田氏以外の会員は赤城山のヒメギフの詳細は知りませんでした。また入会後の時点で、我々は翌年に県指定の天然記念物になることを知らされました。1985年の春、4月下旬より5月上旬で、ヒメギフ採集記録は最後となりました。(「群馬昆虫楽会」の当時の記録によれば、421日から54日まで採集しています。採卵については、自粛する申し合わせがあったのか、記録はゼロでした。ただし採集した♀より採卵して、限定された範囲で、累代飼育をした人は数人いました。) 
 1986
37日付で群馬県の天然記念物(県内全域)に指定されたヒメギフチョウの保護活動を、当初担当したのは「群馬昆虫楽会」でした。私も参加しましたが、他県で現役の虫屋が、県内では虫屋を取り締まることなどに矛盾を感じて、いろいろと議論があり、会員のなかでも保護活動に熱心な人達が中心になり、翌1987年に「赤城姫を愛する集まり」が発足したのです。