ヒメギフ産地を探索----田中恒司先生につれられて----
                                       
服 部 國 士                                                                                                                                                 
 バスから降りたった赤城山・新坂平は、まだ冬の最中という感じで、空はよく晴れているものの風は刺す様に冷たく、葉を落した木々の枝先は小刻みに震えていた。こんな寒い所に蝶がいるのか、と感じたものである。昭和335月のことであった。
 当時は、数年前から小中学生の間で蝶の採集ブームが起こり、私も小学校4年の時夏休みの作品展で見たクラスメイトの蝶の標本に目を奪われ、以来蝶にのめり込むことになった。
 中学生になり2年の時、理科の授業の先生が田中恒司先生であった。坊主頭で黒い丸襟の眼鏡をかけ、物静かな淡々とした授業風景であった。又2年の時入部した生物クラブでも、その年から田中先生がクラブの顧問となられ、その時になって田中先生が赤城山に於けるヒメギフチョウの発見者であり、又どの様な蝶かは知らなかったが、タナカチョウという蝶の発見者でもあるらしいということが話題になっていた。                                                           
 田中先生の発案で、赤城山へヒメギフチョウを捜しに行こうということになつた。参加者は田中先生、3年生二人、それと私の四人で、新坂平迄バスで行き、鈴ヶ岳の脇を通って深山へ下りるということであった。先生は植物にも詳しく道々色々な草花の名前を教えていただいた。新坂平、白樺牧場を通り抜け、外輪山を登りかけた時そこに咲いていたミヤマアズマギクは、特に印象深く、冬枯れの様な中に咲いていた草丈10センチ余りのピンクの花、その様子は今も目の中に焼きついている。途中姥子峠では、田中先生の、「ここから前橋の町がよく見られる」と言う話で、暫く眼下の前橋の町を眺め姥子峠の名前の由来なども聞かされた。
 下に降りるに従って汗ばむ程の陽気となってきたが、蝶は何も見られず、飛び出した一頭のサカハチチョウを三人が追いかけた時には、一頭の蝶に網三つか、と言って愉快そうに笑っておられた。明るい登山道脇に、オキナグサや林の下にヒトリシズカが咲いており、そんな林道を下って行くうち、日の前がパット明るく開けた。サクラソウの群落であった。葉を落した木々の根元を何百株はあろうかと思われる花でピンクにおおわれている様子は何とも見事な眺めであった。