50年ぶりの再会
                                
木 暮  翠
 先般、栃木会長さんと松村直美さんおふた方のご案内を戴いて、群馬県立自然史博物館の特別企画展を参観した。この企画展そのものの意義・内容等は筆者の見学の主目的とは直接の関係はなかったが、普通に各地の博物館等で開催される企画展類からはかなりかけ離れたユニークなアイデアによるものであり、充分迫力があったと言えるのではなかろうか。もちろん、単に昔の西欧諸国の王侯貴族の蒐集趣味に発した“コレクション史”の展示だけではなく、日本における一般庶民の日常生活に関連したものから学問的な研究ないし、教育に関連したものまで、「コレクションのありよう」の多様さには「成程」と感心しながら見学した。さらに当日は館職員の高橋克之氏が我われ一行をご案内くださり、通常展示から収蔵庫室まで見せていただいたので、入館から退館まで小半日を要した。
 ところで、筆者の当日の見学目的は“田中恒司先生の昆虫標本コレクション”ということにあった。企画展の趣旨からして、群馬県における自然史関係のコレクションを紹介する意味あいで選ばれたものらしい。自然史関係のコレクションと言えば岩石・鉱物・化石・植物・地図類を含めた文献資料、鳥の剥製、水生生物等多種多様であり、それぞれの標本・資料を持っておられる方は県内に多勢おられるだろうから、それらを保有するめいめいの方が自分のコレクションの学術史的価値の説明を付した展示をされれば、これはこれで今回の企画展とは別の意義で構成させられるのではないかと思う。今回の企画展で田中恒司先生のコレクション(の一部)が出品されたのは、何と言っても当然、赤城山のヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi)の“第一発見者(報告者)”であることと、発見当初の時代の同種標本とによる。しかし以下には関連的にすこし別のことも加えて記してみたい。
 田中先生が赤城山のヒメギフチョウのことを報告されたのは、“ZEPHYRUS”(ゼフィルス)という雑誌であった(田中、1941)。この雑誌は「蝶類同好会」の機関誌であるが、江崎悌三氏(九州大学教授)はじめ我われ世代からすると2世代上のプロ、アマの蝶類愛好者ないし研究者方によって運営されていた。今とは違って全国規模の同好会組織がほとんど無い時代であったうえに、“権威者”の先生方によって運営されていることなどもあって、“ZEPHYRUS”誌を手にとって読めるのは大いにわくわくすることであった。筆者が蝶類同好会に入会したのは第2次世界大戦敗戦後なので、配布を受けたのはやっと復刊されたもののそれが最後となってしまった1冊だけであった。会の本部としてBNを販売していたかどうかわからず、東京大学向かい側の井上書店や考古堂書店に売られていた旧号も値が高く手が出せなかった。ほかに誰方からか見せて戴くという手づるもなかったことからしても、今の時代からはちょっと想像つけられないだろうと思うほど、“ZEPHYRUS”誌は高嶺の花であった。したがって、“田中報文”は読んだ憶えはあるので、これは多分、田中先生のお手持ちの1冊だったのではなかったかと思うが、これは正確には記憶にない。そして現在ならばいとも簡単にコピーをとれるけれども、コピー機やその先代の写真フィルムによる時代よりもさらに前の時代は、筆写に頼っている以外に情報の伝達はあり得なかった。おそらく“田中報文”を筆者は多少緊張した気分で黙読しただけであったろう。
 以上のような状況の時代に、群馬県内に蝶類同好会会員であった方は田中先生のほかにはおられたとしても1人か2人くらいではなかったろうか。群馬県は絹糸の生産県のひとつだったから蚕の飼育が盛であって、筆者の母方の祖父も“蚕の種(たね)屋”をしていたので、何を観ていたのかわからないが真鍮製のまっすぐな鏡筒の顕微鏡も使っていたらしい。しかし“蚕”は産業用の鱗翅目昆虫であり、自然史の研究対象として存在したのではなかった。田中先生は、いわゆる“戦前”とよばれる時代よりももっと前の時代から、戦前・戦中・戦後に至るまで、自然史の一構成要素としての蝶に向きあってこられた群馬県屈指の学徒と認識されるべき方である。赤城山のヒメギフチョウを群馬県は天然記念物に指定したのだから、田中先生ご自身に対しても“自然教育”の功労者として認識を新たにしてほしいと思うものである。
 次に、“田中標本”そのものについてであるが、企画展の田中先生のコーナーには当然ながらヒメギフチョウの標本の個体数が多かった。そして蛾や蜂まで含めた混成のドイツ箱1箱もあった。ヒメギフチョウについてみると、展翅標本と三角紙包みと出陳されていて、多分そこに出されなかった個体もあるのだろうということを考えると、田中先生の時代には産地には“無数に”と言ってよいほどの乱舞が見られたのだろうと思う。天然記念物に指定されるよりもずっと以前に筆者がヒメギフチョウを採集()したのは大沼の湖尻・青木旅館付近であったし、絶滅したとされたあとの再発見の情報を篠原豊氏が連絡してくれたその場所は大洞の小学校分校付近であった。筆者にとっては、この蝶を採集するのに赤城山の西側コース(上越線敷島駅からのコース)は不便だったので、深山付近と湖畔付近とだけしか歩いておらず、その中間部分の状況は全くわからない。一方、田中先生のデータは深山付近が多くて湖畔付近はなかったような気がする。そこで上と下とに棲息していたのが確かだとすると、中間部分にも往時は連続的に翔びまわっていたのではないかと思えてくる。そういう蝶が今や“赤城姫を愛する集まり”、地元の方たち、はたまたウスバサイシンのバイオテック増殖を進める高校生たちの絶大なご努力で、無事に保護されていることは有難いことである。当然将来の夢は田中先生の時代のように“普通種”的に翔びまわってくれることを期待するのだが、何年・何十年か後にそのようになったとしても、田中先生の標本は経年的な褪色を蒙っても貴重な資料であることにはかわりがない。
 数年前に東京大学の(はっきり記憶していないのだが)何かの記念の収蔵資料を出品した展示会を参観したことがあった。いろいろな学部の関係の由緒ある資料が出陳されたのだが、昆虫標本の展示を見て非常に驚いた。昔の標本箱“抽き出し”式のタンスで、今で言う1箱に相当するのは1つの“抽き出し”であり、ことによると田中先生の標本箱も同じようなものだったのではないか、とかすかに思い出す。東大の標本箱を見て驚いたのは、タンス型であることに対して実にその中の標本についてである。何と箱の中には標本は無く、標本針とその周囲に散っていた薄茶色の少量・微細な粉末だけであった。すなわち、東大にとってのみならず日本の昆虫学の歴史にとっても尊重されていなければならないはずの標本が、管理の悪さからチャタテムシの餌になってしまっていたのである。しかしこういう事例は他にもあって、北海道のある博物館では虫害に遭ってしまった寄贈標本の代替えを、もう一度提供してくれるよう提供者の遺族に要請したという話がある。このことは、標本を管理する博物館等の標本資料に対する認識不足と、その根底にある予算の不足等があるのだろうと思うが、一旦失われてしまった標本は絶対に元には戻らないのだから、収蔵された標本については万全の措置を施してほしい。
 博物館側としては、極端な例では、「標本は管理するのが大変だから要らない。ヴァーチャルで良い。それよりも空港建設の方が大事だ」と県知事が言ったという県が東京近辺にあるし、提供される標本の価値が充分理解しきれないで収蔵することに消極的なところもあるかもしれない。けれども筆者としては、(特に、自然史を重要視することを考えるならば)博物館は標本の収蔵・蓄積・管理にはできるだけ積極的であってほしいと考える。現在、各地の同好会・学会等には若い世代の会員が減少して、会の存続が心配されているところもある。また、個人的に標本を保有することは経済的にも住環境の問題からしてもむずかしく、そのため写真によるコレクションに切り替える人も増加している。ということは「近い将来に『標本という原物による自然史の記録』が無くなってゆく」という予測を可能にする。それどころか、人為も含めた環境変化による生態系の混乱は、各種生物の生存にさまざまな変化をひき起こすから、変化そのものはやむを得ないばあいがあるとしても、現実的に必要とされる各種規模の“現状保存”の方策は重要な問題だろう。
 “東大の標本”以下のことを筆者自身、“少しくどいな”と思わないわけでもないが、これらのことと田中先生のコレクションを対比してお読みいただければ幸いだと思うのである。
 最後に田中先生の標本そのものについてのことをすこし書きたい。企画展に陳列された標本は当然ヒメギフチョウであったが、田中先生が展翅されたものにはヒメアカタテハとかコミスジなどもあった。ラベルは読めなのだが、多分、前橋産であろう。それらを見たとき、「あっ」と思ったのは各個体に使われていた標本針であった。それは我われが現在普通に使っている標本針ではなく、ひとむかし頃のいわゆる“虫ピン”であったのだ。今は書類を綴じるのにクリップやホチキスが当たり前だが、以前は長さ2センチくらいの太めの“虫ピン”が使われていた。一応メッキはされていただろうが、材質が鉄なので経年的にサビがでてくるし、サビは紙に刺さった部分を褐変させ、紙質を損ねる。田中先生はこの“虫ピン”を使っておられたのだった。これは田中先生のお宅で標本を見せていただいた時代(50年前)には気づかなかった。今は“タツミの針”、“志賀製”あるいは“カルルス・バド”など細身でステインレスの針が自由に入手できる時代なので、数十年昔の苦心など誰も思いつかないに違いない。
 ある標本はこの虫ピンのサビ(というよりも前に虫体に相応しない太さ)が虫体を破損しかけているし、展翅板からおろした後の変形(いわゆるオチョコ)など、標本の状態として良好とは言えないものがあった。それは“時代”としてやむを得なかったことだが、一面において“文化史”あるいは“科学史”の証言でもあるように思え、それはそれで大切に保存されるべきものだと思うのである。そして、幸いなことに、田中先生が採集はされたものの展翅せずに三角紙包みのままに残されたヒメギフチョウが、今、自然史博物館とその展翅作業を委託された方のご努力で順次軟化展翅されている。新しい標本針を使って綺麗に整形されたヒメギフチョウが並んだ標本箱を見て、褪色は仕方がないとしてもつくづく「良かった」と思う。田中先生が赤城山西麓で採集しておられたのは1940年代初頭のことだから、実に60年ぶりの復活で田中先生も大いに喜んでおられるだろう。
 筆者としても実に感慨深い50年ぶりのご対面であった。末筆となって恐縮だが、田中先生のご長女・奥野まささん、栃木利夫氏、松村直美さん、高橋克之氏、そして企画展のことをご紹介くださった篠原豊氏の皆さまにお礼申し上げる。