田中恒司先生のこと
                                                      
山 賀 幸 二
 昭和4年(1929)私が男師付属小の1年生の時、田中恒司先生は師範の5生、最後の仕上げとして、教育実習にこられた。私達は教生の先生と呼んだ。残念ながら私達のクラスに配属になったのは長井、黒岩両先生で田中先生ではなかった。翌昭和53月(1930)、群馬県師範学校本科第一部を卒業されたわけである。同級生には佐野金作、磯貝三郎先生など私が存じ上げている方もおられたが、今は皆亡くなられた。
 さて先生が卒業し小学校教員となられた頃の昭和の初期、日本は不景気のどん底にあった。東北では不作続きで飢饉にさらされ、娘を売る農家まで続出した。当時市町村の負担であった小学校教員の給料さえ払えない村も出てくる有様であった。この打開のためか、軍部は出口を中国侵略に求め昭和
69月(1931)満州事変を起こした。高崎の郷土部隊も戦地(中国東北地方)へ出動したので出征兵士送りに市民も動員され、小学生も小旗をもって軍歌を歌いながら駅まで歓送した。おそらく田中新米先生も生徒をつれて「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のわが兵は…」と駅まで行かれたであろう。ご自身も短期現役兵として高崎15連隊に入隊、陸軍伍長の階級になられたはずである。
 昭和
8年(1933)から昭和11年(1936)までの束の間の平和が先生が教員生活の傍ら昆虫に打ち込めたよき時代であったと思われる。やがて昭和127月(1937)、日中事変が勃発し引き続き昭和1612月(1941)の太平洋戦争へと突入した。世は軍事色一色に塗り潰されぴりぴりした世の中となった。物資は欠乏し特に食べ物がなくなった。『欲しがりません、勝つまでは』と庶民は耐乏生活を強いられたが、一人軍人のみが幅を利かせて闊歩していた。自然を愛し、花や蝶々を友とする人にとっては(まこと)に住みにくい世の中となったものである。まあ考えてみても、兵隊と蝶採集では月とスッポン、水と油でとても共生できるものではない。かつ昆虫に対する当時の社会の認識も非常に低く、すべて虫けらと片付けられ、昆虫の正確な和名を言える人など珍しく、オオムラサキを知っている人など皆無であった。図鑑・雑誌やその他の情報も少なく、理科教育も桜の花びらは5枚、蝶の翅は4枚、肢は6本と覚えるだけの試験に受かればよい式の学問が主流であった。これでは駄目だと心有る人達のみが野外に出て実物に接しなければいけないとする気風がようやく芽生えてきた頃である。
 交通も不便で(両毛線も汽車が日に
12本しか無く前橋・桐生間が1時間もかかった)。猿ヶ京温泉行きの木炭バスは坂が上れずエンストし、お客は降りて「よいしょ、よいしょ」と後押しをした。自家用車やバイクなど更々無く、電話、ラジオのある家も珍しく、カメラは贅沢品という時代である。昆虫研究にも不便で採集はもっぱら自転車と足で稼ぐより他はなかった。現在と比較すると隔世の感がある。
 そんな中で
(まれ)には奇特な人もいた。明治42年前中卒、吾妻郡旧沢田村(現中之条町)村長・町田義一郎氏、同村・町田浩蔵氏が郷土の蝶類の研究をされていた。それもその地方にどんな蝶がいるか調べたり、コレクションがなん種になったかにわずかな喜びを感じていた程度であった。その(ほか)は昭和10年小林義夫氏が前中の校友会誌“坂東太郎”に『昆虫採集のすすめ』を書いた事と、ラジオで小学生が鳥取の久松山(きゅうしょうさん)で珍しい蝶を採集したと放送されたぐらいである。
 私も小学生の頃から昆虫採集にのめり込んでいたが、中学生ともなれば、この非常時にいい若い
(もん)が白い虫捕り網など担いでふらふらしているなどと、奇異の(まなこ)で見られ、なんともきまりが悪かった。それで町中(まちなか)では網は隠し持って現場にいって初めて広げるようにした。田中先生はどうだったかな、信念をもっていたので堂々と捕虫網を振り回していたのかな、この時代環境の中で群馬で初めてヒメギフチョウを発見したのである。勇気があったなあと敬服した。明治16年(1883名和靖氏の岐阜県に於けるギフチョウ発見に匹敵する。しかしこれはまあ平和な時代の話だ。
 昭和
20年(1945)敗戦、私は昭和2211月(1947)、シンガポールから復員した。空襲で焦土と化した前橋の街は、カサリン台風の洪水の追いうちにあって見る影もなかった。目標を失った人々はその日その日の生活にきゅうきゅうとしていた。
 占領軍は日本の軍国主義的なものは一切排除し、平和主義の芽を育て、日本人の気風を剛健から軟弱、質実から享楽的なものに変えるべく政策を施行していた。我々は3S(スポーツ、スクリーン、セックス)主義だと自嘲した。
 おかげで、平和・文化的な虫屋も復権した。高等学校のクラブは剣道、柔道部等がなくなって、生物部やコーラス部、ダンス部などが隆盛してきた。各地の文化祭では昆虫標本展示に人気があった。学校の展覧会出品用にと熊谷佐平
先生や丸山清康先生が私の標本を借りにきたりした。布施英明氏が『スギタニトチクウ』と電報を打ったり、湯浅氏のクロミドリシジミが紹介されたり、林氏がハヤシミドリシジミを発見したのもこの頃だったかな。
 前高の文化祭で木暮翠君に会った。彼はヒメギフチョウの蛹をごっそり持っていた。聞くと田中先生の発見したところで採ったと言った。昭和23(1948)頃私はまだヒメギフチョウを自分で採集したことがなかったので先生を訪ねて教示を乞うことにした。前橋駅の北西に当たる所の塀のある小さな家がそうだった。幸い空襲は免れたようだ。黒縁の丸い眼鏡を掛けられ、坊主頭の背の高い先生がニコニコと出迎えてくださった。小柄な奥さんと可愛い坊やも迎えてくれた。
 「ヒメギフチョウを見つけた時はどうでしたか」「あれは昭和15425日(1940のことでした。いやーもう興奮しました。パラパラパラとなかなか素ばしっこい、あちらにもこちらにも、胸がどきどきして心は焦るし、大きな投網でスパッと被せたいと思いました」「始めて採集したのですか」「そうです、初めての発見でした。感激でした、歓喜しました」先生は目を輝かせた。ああ、この感激は虫きちでないと分からない! 私は喋ることがないので南の島の話をした。「スマトラにハッチョウトンボがいました。それから前翅に赤い部分の無いコノハチョウがいました。網が無かったので手で掴まえるのに苦労しました」「へ−、あんな暑い所にハッチョウトンボがねえ」先生は感心して聞いて下さった。背後に沢山の標本箱が引き出しにされて納められていた。その一つにヒメギフチョウがたくさん並べられてあった。とても羨ましかった。「場所は敷島駅でおりて少し上った所です」先生は更に雑誌『ゼフィルスZEPHYRUS(Vol.9 . 1941.P25)に投稿された別刷りを下さった。それを熟読玩味した。
 
満を持して翌年の昭和24423日(1949)、かの場所へいってみた。前橋の家からボロ自転車で国道17号をガタガタと走った。天気晴朗、風穏やかに目的地の敷島に着いた。付近をくまなく探したがヒメギフチョウはカジイチゴの花にきた1頭しか発見できなかった。その他には越冬したヤマキチョウやコツバメ、サカハチチョウなどがいた。次週も出かけたが1頭もいなかった。
 
それから先生のお宅に度々伺った。いつも喜んで迎えてくださった。先生も虫の話ができるのが嬉しいらしい。「前橋の近くでオオムラサキのいる所をご存じですか」「それなら、江木と大胡の中間の櫟林にいってご覧なさい、電車の道の北側です」「ムモンアカシジミは何処にいますか」「榛名山の沼原の柏の木を探しなさい」「キベリタテハは」「赤城山です」先生はすらすらと教えて下さった。あらゆる蝶の群馬における産地は全部ご存じの様だった。
 
オオムラサキはその場所に毎年出かけて採集していた。未舗装の道で前橋萩町(現昭和町)から現地雑木林まで6km位あった。暑かったが楽しかった。しかし、ある年ブルトーザーが入ってアッという間に綺麗に整地してしまった。見る見るうちに「鐘の鳴る丘」のホームが出現した。「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台・・・」新聞などはラジオドラマで有名なホームができたことを大々的に祝ったが私は寂しかった。
 ヒメギフチョウも赤城山付近には必ずいると確信し、春になると探しにでかけたが、箕輪付近、鳥居峠下、花見が原と回ってみたが、1頭もいなかった。敷島でもあれからサッパリ見えなくなった。同好雑誌“赤城”Y号に篠原君が昭364月(1961)に調査した時も見なかったと書いてあった。(参考、私の知る敷島付近以外で採集されたヒメギフチョウは1945430.赤城山沼尻♂2195253鈴ヶ丘山頂♂1
 
北隆館が“新昆虫”という雑誌を発行し、販路拡張を兼ねて昆虫学の啓蒙のためか日本各地で講演や研究発表の集会を開いていた。群大学芸学部で開催された時か、先生も出席され熱心に聴講しておられた。私は都合で参加できなかったので先生にお頼みして、前年採集したミドリシジミの後翅裏面の白帯がひろく流れた固体の同定を、その時こられた専門家に依頼して頂いた。先生は快く引きうけて下さった。結果は普通のミドリジジミの変種であろうということになった。
 
昭和32年(1957)、私は桐生に引っ越したので疎遠となり賀状だけのお付き合いとなった。
 
先生は戦争末期前橋の久留万高等小学校に勤務されておられた。高等科の生徒はほとんどが勤労動員されて授業は無かった。昭和2085日(1945)の空襲で校舎は全焼した。城南小学校に疎開して間もなく敗戦を迎えられた。学制が変わり、新制前橋二中へ転任されたが、校舎不足で疎開先の城南小で二部授業をされていた。いつも兵隊服で通われていた。二中の新校舎が一毛町に完成したのは昭和25年(1950)である。生徒に中(ドラゴンス)の中(センター)の中利夫選手、画家で小説家の司修氏等がいた。ついで新設の五中へ移りそこで定年を迎えられた。温厚寡黙なご性質で学校の職員会議などでは余り発言なさらず、勤務中は趣味としての昆虫の話は曖気(おくび)にもださず、ひたすら教育に没頭されていた。ただ細密画が上手で理科の授業に使う花や昆虫の絵を丁寧に書いておられた。素人離れした作品であった。その後、しばらく共愛女子高等学校で理科の講師をされていたがこの頃奥さんを亡くされた。
 
マライ半島へ採集旅行に行かれたのが昆虫研究の最後のお楽しみであったと思う。お土産にアカエリトリバネアゲハ(チョウ)を頂いた。触角が折れて接着剤でつないであった。