田中恒司先生の思い出
                              
吉 田 龍 司
 昨年10月、知人の写真展を軽井沢で見ての帰り、県自然史博物館で開催されている荒俣宏の企画展示「驚異宝物館」を思い出して立ち寄った。ヴンダーカマー(ドイツ語で驚きの部屋)と呼ばれるその一角に「コレクターの部屋」があり、田中市郎・角田金五郎・長谷川善和氏等、郷土の博物学者に混じり恩師田中恒司先生も紹介されていた。赤城山等で採取された貴重な蝶や植物、そしてそれらのスケッチや採取道具の数々を拝見できた事は何にもまして懐かしく嬉しかった。
 私が生物に興味を持つに至った動機は、田中恒司先生との出会いが全てである。昭和251950)年私は前橋2中の生徒で、田中先生は理科の教諭であった。終戦後の混乱期はまだ続いていて、教室が足らなくて小学校を転々とするジプシーのような二部授業の毎日であった。先生は生物に興味のある生徒をよく郊外へ連れ出し、蝶の採取や展翅を教えてくれた。両毛線沿線の前橋天川大島のご自宅にもしばしばお邪魔をさせていただき標本を見せていただいた。しかし私はいつの頃からか虫より植物の方に興味を持つようになり、捕虫網を持つ手は胴らんや野冊に切り替わってしまった。先生との野外での思い出は、会の機関紙『赤城姫第11号・1998』に服部國士氏の「ヒメギフ産地を探索―田中恒司先生につれられて−」の報告文で掲載されている。彼は私の中学の後輩で、田中先生の薫陶を受けてか、蝶の世界に魅せられて行った事が文章から窺える。赤城山での採取行の描写もよく書かれていて、当時私の連れられていった風景と二重写しとなり懐かしさが込み上げてくる。
 私が最初に先生に教えていただいた植物はワレモコウとオカトラノオであり赤城白川付近であった。レンゲショウマは赤城の一杯清水で、アツモリソウやオノエランは地蔵岳で教えられた。食虫植物のモウセンゴケやムシトリスミレもその時教えていただき、草が虫を取るというその不思議さに心を奪われたものである。しかし今は現地でもよほどでないと見つからない貴重な植物になってしまったことは淋しい。
 長じて東京へ就職し、家業の手伝いで帰郷したある日、群馬県自然保護連盟の『目で見る群馬の自然展』を前橋の婦人青少年会館で開催中奇しくも先生に20年振りに再会した。この展示で尾瀬のザゼンソウが話題となり、仲間がこの写真を撮りたいが尾瀬に行けないというのを尻目に「赤城の山麓にあるよ」と意図も簡単に云ったのには驚いたものである。その時来客があって迂闊にも場所を聞きそびれてしまったが、昭和50年頃サクラソウの分布調査中、富士見村石井で自生地を偶然私が発見し、この地が先生の言っていた場所ではなかったかと思いを馳せたものである。このザゼンソウの顛末は群馬県自然保護連盟機関紙『群馬の自然』(1998年春号)に「植物歳時記ザゼンソウ」として拙文を掲載した。現在富士見村の文化財として大切に保全されているのは嬉しい限りであるが、先生と永のお別れとなってしまった現在、返す返すも残念である。