「赤城姫を愛する集まり」20年の歩み (松村行栄 2008.3)

 1940年、赤城山のヒメギフチョウは田中恒司氏により発見され、1941年に「ZEPHYRUS」に発表された。1950年代は多くの個体が観察されたが、1970年代には全く姿を見ることができなくなっていた。それが1981年に再発見されたが数は少なく、198637日付けで群馬県天然記念物に指定され、群馬県教育委員会が中心になり47日に「ヒメギフチョウの保護対策会議」を開催し、群馬昆虫楽会(現 群馬昆虫学会)にパトロールを委嘱した。

1987
 4
19日、第1回集会が開催され、『赤城姫を愛する集まり(以降;会)』が発足する(会長:阿部勝次氏、会員数7名)。活動としてヒメギフチョウ生息地に於ける成虫、産卵数、及びウスバサイシンの発育状態を観察、記録に残す事を目的に活動を開始する。併せて会では保護を訴えるパトロールを自主的に行い、パンフレットを生息地周辺で配布、シーズン後に日報を県へ提供した。

1988
 群馬県教育委員会が中心となり「群馬県ヒメギフチョウ保護対策会」を正式に発足し、会では保護を呼びかけるパトロールを委嘱される。南雲小学校にチョウ標本を寄贈したり、スライド上映会を開催したりして地元との交流が開始される。会の活動として田中恒司先生の標本の調査や、カタクリ球根の植え付け、勉強会を行う。地名の現地調査も始める。

1989
 機関誌『赤城姫』創刊、
1987年、1988年の活動をまとめる。地元の文化祭で展示を行ったり、観察会や写真展を開催したりしてさらに交流を深める。勉強会も前年に引き続き開催した。潜下、ヤハズ(現呼称Yポイント)、六道の辻、箕輪の調査も行った。

1990
 生息地周辺で「生活環境保全林整備事業」に伴う遊歩道の新設が開始され、生息地を通る遊歩道も次年度以降に設置される計画が提案された。そこで会では県との話し合いを持ち、ヒメギフチョウの生息に配慮したルート選定を要望した。赤城歴史資料館へのチョウ標本の寄贈や文化祭への参加で地元との交流を続けるほか、県主催の「森と木のまつり」でもヒメギフチョウを紹介し、手作り紙製模型のヒメギフチョウ、造花のカタクリは好評を博した。若齢幼虫での死亡率を低くするため、卵塊の産まれた食草に網をかける保護(網掛け)を開始し捕食率の低減を試みた。

1991
 遊歩道は会の要望が一部取り入れられ、生息地の一部(
Yポイント)は通さないこととなった。第2回日本鱗趨学会セミナーで現状を紹介し、赤城山のヒメギフチョウ保護に関する全国的なアピールと会の活動に関する理解の訴えを開始した。赤城山の清掃登山に参加し、群馬県自然保護連盟とも協力の体制を組んだ。

1992

ヒメギフチョウのためにYポイントで会員による下草刈りが開始された。日本野生生物研究センター(現(財)自然環境研究センター)や東京電力など、外部団体からも調査協力依頼を受けるようになる。また、国内外の学会でも網掛け等の成果を報告した。秋には生息地内に生活環境保全林整備事業」に伴う遊歩道が設置された。

1993
 新設された遊歩道を使い産卵地域全域での調査ができるようになり、その後の産卵調査が統一した基準で評価できるようになった。その結果、産卵の確かな低下が観察されたので、日本鱗翅学会において緊急報告をするとともに、県に「赤城山のヒメギフチョウ人工増殖に関する要望書」を提出した。ヒメギフチョウ飼育観察小屋の設置を赤城村と話しあったが、実現には至らなかった。赤城村役場産業課より生活環境保全林整備事業の森林簿を入手し、ヒメギフチョウ生息地植生図の作成の準備をはじめた。「赤城村森林基本図」を請求し渋川林業事務所より「赤城村森林基本図」(私有地を除く)「生活環境保全林整備事業・全体平面図」を入手。公益信託増進会自然環境保全研究活動助成基金の助成を受け「赤城山のヒメギフチョウの保護・増殖に関する基礎研究」として、生息環境の総合的な調査を行い、今後の環境整備方策を提案できた。調査カード提出用のポスト2か所(赤城村村営キャンプ場・深山バス停)に設置。

1994
 NHK
による保護活動の取材、撮影が行われた。地元の方々や群馬県自然保護連盟との連携も軌道に乗っていた。赤城村によりウスバサイシンが鈴ヶ池周辺に約 400株、移植された。日本鱗翅学会の創立50周年記念国際シンポジウム(於:大阪府立大学)や、学会セミナー(於:鹿児島大学)で赤城山におけるヒメギフチョウの保護についてポスター発表をした。

1995
 不足する食草ウスバサイシンを無菌播種の技術で増殖させる試みで、群馬県立大泉高等学校との交流が始まる。放送大学の撮影スタッフにより、赤城山のヒメギフチョウの野外での姿がハイビジョンに収録、会も協力した。
100卵近くが盗まれる事件が起きた。秋にYポイント南面が皆伐される。

 1996
 前年の皆伐の影響を受けたためか、
Yポイントの産卵数が激減。群馬県教育委員会生涯学習課による「赤城山のヒメギフチョウ」(読売映画社)のビデオ撮影が開始された。文化財保護課からはパトロールの委嘱状が届くが、1984年に提出した要望書に対する反応はなく、当年には卵/幼虫調査に対し現状変更等許可申請書の提出を要請される。岐阜県においてギフチョウフォーラムが開催され、ポスター参加した。田中恒司先生死去。

1997
 会長が阿部勝次氏から栃木利夫氏に交代になる。群馬県教育委員会の生涯学習ビデオ「赤城山のヒメギフチョウ」が完成した。『月刊むし』・『昆虫と自然』・『蝶研フィールド』・『日昆協ニュースレター』など各出版社へ保護協力呼びかけ文掲載依頼を開始した。群馬県自然保護連盟主催『目でみる群馬の自然』展(於:前橋市バラ園)に出展した。南雲小学校の生徒全員による観察会が開始された。

1998
 機関誌『赤城姫』第
10号(1997年の報告)で、田中恒司先生の特集を組む。南雲小学校生徒の感想文掲載が始まった。FM群馬直撃ラジオDOMANNAKAから表彰状を受ける。群馬県で開催された全国植樹祭記念シンポジウム「群馬のチョウの現状と保護」(於:NHK群馬)に参加した。聖酒造の「清酒・赤城姫ラベル」にヒメギフチョウが採用された。

1999
 「生き物シンポジウム 
トラスト地で考える身近な自然」(於:さいたま緑のトラスト保全地第3号地及び嵐山町役場町民ホール)に参加し、全国のオオムラサキ保全団体と交流した。

2000
 機関誌『赤城姫』第
12号でカラー口絵写真を採用した。群馬テレビ企画の「ぐんま 光と雲と風」でヒメギフチョウ撮影に協力した。南雲小学校児童による保全の取り組みに呼応して、父母の方々による下草刈りが開始され、会も協力をした。

2001
 「ぐんま 光と雲と風」放映された。
群馬銀行環境財団より第4回同財団賞を受賞した。群馬昆虫学会主催アサギマダラのマーキング調査(於:溝呂木)に協力した。南雲小学校父親クラブによる遊歩道整備や全校遠足とカタクリ植栽に協力した。

2002
 生息地周辺で群馬県自然保護連盟によるサクラソウ保護が開始され、柵設置に協力した。南雲小学校全校生徒による観察会や遠足とカタクリ植栽に協力、南雲小学校父親クラブによる遊歩道整備に協力した。群馬県立ぐんま昆虫の森準備室などとの交流(於:深山)をした。赤城山のヒメギフチョウについて講演をした(於:群馬県立勢多農林高校)。

2003
 「クリーン・グリーン・
ECOの集い」(於:粕川村サンデン株式会社)にパネル展示で参加し、自然保護を通してNPO団体との交流が開始された。

2004
 コカ・コーラ環境教育賞主催者賞を受賞した。新潟ライオンズクラブによる「環境保全奉仕活動」により遊歩道整備(下草刈り)が行われるなど、外部の団体の協力が得られるようになった。ヒメギフチョウの保護を実践している南雲小学校とヤリタナゴの保護を行っている藤岡市立美久里東小学校との交流があり、ヒメギフチョウを通じた輪が広がった。

2005
 チョウ類保護ネットワーク(現 日本チョウ類保全協会)が設立され、「チョウ類の保全を考える集い」(於:小田原市 県立生命の星・地球博物館)に参加、チョウの保全が全国的な活動に発展した。会でも「へき地教育研究集会」(主催・群馬県へき地教育研究連盟)で「学生参加によるチョウの保護」を講演したり、群馬県立自然史博物館企画「驚異宝物館」の特別展示「コレクターの部屋」で田中恒司先生の資料展示に協力と支援したりし、チョウ類の保全の普及が開始された。会員作品の赤城ヒメギフ映像が、前橋市民芸術文化祭(於:群馬会館ホール)にてビデオ作品で紹介された。会員も参加していた赤城ライオンズクラブが「ヒメギフチョウの繁殖地を守る環境保全事業に貢献」で国際アワード賞を受賞した。

2006
 ホームページが開設された。勢多郡赤城村が渋川市と合併し名称変更(渋川市赤城町)、渋川市文化財保護課・広報課による赤城姫の写真展(於:渋川市役所第二庁舎)が開催され、読売新聞『渋川広域よみうり』に活動が紹介された。「赤城自然塾」のキックオフイベントが開催され、会の活動が地域の活性化に寄与していることが評価された。県広報メールマガジン『ぐんま見聞録』別冊にインタビュー記事が掲載された。

2007
 みどりの日に「自然環境功労者環境大臣表彰」保全活動部門を受賞した。その他、さわやか福祉財団ワンモアライフ勤労者ボランティア賞顕彰式で受賞、また、平成
18年度(第32回)群馬県自作視聴覚ソフトコンクール パソコン・静止画部門(ホームページコース)群馬県教育委員会教育長賞・最優秀賞受賞表彰式で受賞した。産卵数が激減したため群馬県教育委員会に状況を報告し、県/市が実施した緊急措置に協力した。その後の環境整備に日本自然保護協会の2007年度プロ・ナトゥーラ・ファンド助成を受けることができた。