赤城姫を愛する集まり
                   「赤城姫を愛する集まり」初代会長  阿部勝次

 1987419日、上州の桜前線は山麓へと向かっていた。日曜の午後、鈴木、松村、服部、成田、阿部(一)、茂木、阿部(勝)、7人の蝶友は、阿部家の狭い二階の部屋で蝶談議に熱が入っていた。もちろん赤城山のヒメギフチョウ論議であった。そもそも赤城山のヒメギフチョウがここ2〜30年来、「見た」とか「採った」とか「いるらしい・・・・・」とか「もう全くいないのだ」など、結局世間には「絶滅の珍蝶」「幻の蝶」「化石になったヒメギフチョウ」などのタイトルが付けられ、とてつもなくすごい蝶々様になってしまっていた。
 その幻を採った大橋健司氏(1981・5・3・桐生市)の驚きの様はさぞかし大変であったと想像する。鈴木潤一氏(桐生市)と共に生息地を確証した実績は群馬の蝶史に残る事であろう。(赤城姫との出会い、乱舞、第3号、1985群馬昆虫楽会)大橋氏が採る以前に「赤城のヒメギフが採れた・・・・・」というニュースがある事から、どこかで採れていたのか、ただの噂だったのか、確実な発表がないので詳細はわからないが、篠原豊氏(前橋市)が大沼湖畔で1♀を採った(1980〜1981、5月末)ニュースを耳にして、深山地区との関係上からもとても気がかりになっているが、はっきりしたデータ不明は残念だ。赤城のヒメギフのニュースはまたたく間に全国の蝶々屋さんに伝わって行った。赤城山にヒメギフがいる、という事だけで、どこへ隠し隠そうとも、あっと言う間に探し出してしまう蝶々屋さんの感覚機能と行動力は、自ら当てはまる覚えがあるがその特技には驚くばかりだ。蝶や自然相手の同好会が戦後全国に生まれ、群馬県内にも、群馬蝶類同好会(木暮)、多野蝶類同好会(布施)、群馬昆虫同好会(山田)、赤城昆虫同好会(中村)群馬蝶類同好会(布施)、沼田蝶類同好会(諸田)、生物クラブ会等(私の知る範囲)が野に山に自然を求めて活動していたが、その後しばらくの間組織活動が静かになっていた。藤岡市を中心とした蝶仲間が「群馬愛蝶会」(生田)を発足させた、(1983・3)木村氏(前橋市)からその話を聞いて早速私も仲間に入った。この頃であるナニやらヒメギフの話題が出たりひっこんだりしていたのは。その後愛蝶会は、「群馬昆虫楽会」と改名(1985・4)現在県内唯一の同好会として活動している。「アカギヒメギフをみんなで採ろう」「赤城全山をテッテイテキに探し、地図上に赤マークを付けよう、ヒメギフ作戦はもう終盤戦だ、群馬のヒメギフを探そう・・・・・」大きな見出しで私はみんなに呼びかけた。(愛蝶ニュースVo12No12・1985・3)おらが故郷の「幻の蝶」を地元の蝶々屋さんが採らずにどうするものか・・・・・。郷土隣人愛精神を発揮した私は、初めて採る蝶の感激と感動の興奮を少しでも多くの仲間に知ってもらいたい、分布図や生態を知り記録を残し貴重な自然の大事さを知らねばならないと考えたのだ。大橋氏が初めて採ってからも早4年も経っていた。「東京のインセクトフェアで赤城山産ヒメギフチョウが一匹2〜3万円で売り出されている」(愛蝶ニュースVo12No10・1985)これを聞いて私はひっくり返る程驚いてしまった。蝶の売買に対しては触れたくないが誰かが換金している事は確かだ。実際に買う人がいるのかどうか、世の中どうなっているのか私には時世に乗って行けそうもない。ともかく、群馬昆虫楽会の集まりには、いや他の蝶仲間の話題はもっぱら赤城ヒメギフでもちきりだった。赤城山のヒメギフチョウ、赤城ヒメギフ、赤城ヒメ、赤城の姫岐阜蝶を略して「赤城姫」と呼ぶようになった。これは単なる呼び名だけでなく、その奥深く古き時代の何とも表現しようもない哀愁感をも含んだ呼び名で私は好きである。1984510日、見たい、会いたい、是非この目で確かめたい、30年振りに会えるかもしれない蝶への期待と不安の心でバラ砂道を、噂をたよりに軽トラックの腹をこすりながら今春三度目の挑戦を深山へ走った。登山靴に首からカメラを下げ、スプリングネットを丸め、交換レンズを持ち、ここらあたりと思う斜面のイバラを払い右に左に息を切って登ったり降りたりした。五月晴れだが北風がやや強く冷たく感じ汗ばむ身体には心地良い。ふり向けば青空の中に残雪の谷川連峰や上州武尊が光って美しい。全神経を目に集め、まばたきすらもったいない気持で開けた岩場から雑木林に入ったとたん、足元の枯葉がヒラリと舞い上がった。「いた!」長い間の蝶感覚がふるい起き、目と頭の神経は動物本能にかえっていた。「でたか!」もう動く物は姫しかいない、蝶影を見逃すわけはない、まさしく姫だ。枯葉上で翅を太陽で暖めていたのであろう、4〜5m.飛んで再び枯葉上に降りた。カメラを向けるが眼鏡に伝わる汗はファインダーをのぞく目にしみる。心臓の鼓動は静かな山の中にあってドクドクと聞こえるほど高鳴っている。シャッターを切っては目を開いてながめ又シャッターを切る。何度かくり返している内にいつの間にか彼女に接近してた。いくら足音を忍ばせても人間と昆虫だ。彼女は敏感にパッと舞い上がる。右に左にミズナラの木立をくぐりヒラリと風に乗る。私に目は彼女を見失うまいと視線を彼女から離さないので木の根や岩につまずいて足を取られた。生きている。飛んだ。止った。黄色と黒のダンダラに赤い斑があざやかだ。それが今自分の手の届く所に居るのだ。春の女神だ。ふと30年も昔の寒冷紗ネットのぶつかり合う音が聞こえる。20数回シャッターを切ったろうか、次には丸めていたスプリングネットを広げ恐ろしい悪魔になって彼女におそいかかっていた。白いナイロン網の中からつまみ出した赤城姫に胸を押しつぶす勇気がなかった。30年振りに手にした彼女を見て頭にカーッと血がのぼるのを感じ、しばし雑木林の枯葉上にしゃがみ込んでしまった。1954429日、赤城山箕輪部落を過ぎ一杯清水へ続きの山道は前橋からのバスがたまに登る程度だったろうか。学生服姿の3人は中学校の生物クラブの仲間だった。やっと木々の芽が出て、かすかに山がねむい目をこすり始めていた。母の手作りむすびをふろ敷に腰弁としゃれたつもりだ。前橋からテクテクと歩いて5時間もかかったろうか、それでも道すがらベニシジミやミヤマセセリを採って三角雛はいくらか満足していた。運動靴の足裏が痛くなって、もう帰ろうか、という時だった。並んで歩いている3人の足元へどこから湧いて出たのか黄色っぽい小蝶が飛び出てきた。「ヒメギフだ・・・・・!」先輩格の本橋さんが叫ぶが早いか3人の持っていた二ツ折りの寒冷紗ネットはガチャガチャと音を立ててぶつかり合った。結局私の網に入った蝶はまさしくヒメギフチョウであった。3人の興奮はしばらく続き、あたりを見まわし、にわかに活気付いた。まさか、が本当になってしまった。今はこの時の網のぶつかり合う音だけがかすかに記憶に残り、標本は私の人生街道と共にどこかへ消えてしまっていた。久しぶりに本橋さんに会って、その時の模様を聞いた所、2〜3匹採ったようだが・・・・・と話してくれた。標本も記録もないのでどうする事も出来ないが、これが私と赤城姫の出会いの一幕である。その後何度か箕輪付近を探したがその姿は無く、深山部落の春もずいぶんと足を運んだり、信州の角間峠や太郎山あたりも足を伸ばしたが姫には会えなかった。・・・・・ところで、その斜面にはもう10人ほどが捕虫網を持って陣取っていた。ヒメギフチョウの飛び立つのを待機しているのである。・・・・・9時頃になるとヒメギフチョウがあちこちで突然のように飛びたつ。それに向かって捕虫網が振られ、ほとんど取り押さえられてしまう。羽化したばかりでは早く高く、長い間飛べないのに可哀想なことであった。・・・・・春の妖精カタクリに止る春の女神を期待したがそれは見ることが出来なかった。・・・・・しかし今日一日でこれだけの採集者がいる。あさっても続くであろう。これではヒメギフチョウがまた幻の蝶となるのではないかと思った。・・・・・昭和61年群馬県の天然記念物に指定され保護の手だても講じられつつある。この小さな生き物の命、そっとしておきたいものである。須藤志成幸の「美しき群馬の自然、私の野帳から」(上州路1987)の一文である。1985年春 このままでは赤城姫は絶えてしまうかも知れない、何とかしようという声があがっていた。蝶仲間が県の行政保護へ陳情を重ねたが、何故かすんなりとゆかず、不安と期待と採りたい気持ちが複雑に入れ混じって蝶々屋さんもおかしな気分のままそれぞれ結構採集したり研究にしていた。まだ他にも生息地があるのではないかと走りまわる仲間もいたし、噂では○×先生は3ケタも採ったらしい、などと聞くと、ドヒャーツ驚きの声である。シーズンも終わり、どうやら天然記念物になる可能性が充分認められ、あとは時期を待つ結果となった。やがて12月、いよいよ県指定が本決まりとなり、19862月公表で37日付で群馬県指定天然記念物となり、蝶では、ミヤマシロチョウ、ミヤマモンキチョウ、ベニヒカゲ、オオイチモンジ、(1977・326、指定)に次ぎ5種類目となったのである。1986年春、天然記念物指定についてはさまざまな論争が出た事はいうまでもない。神社仏閣と違い、生き物で小蝶となると保護方法もかなり面倒で、蝶々屋さんを蝶々屋さんが監視するなんて事になったら、へんてこりんにならなきゃいいが、先ず問題となった。悪夢は的中し、結局一年目は、現在活躍中の「群馬昆虫楽会」が主体となって保護活動を行う結果となり、4月〜5月末の保護パトロールは、30数名の協力者に依り毎日生息地を巡回、という厳しい状態の中で、苦労の末これと云った問題も無くシーズンを終え、悪天候のシーズンであったにもかかわらず、成虫や卵も結構数確認された。(虫屋通信Vo1 4・ No・3 1986、群馬昆虫楽会)しかし諸事情のもとから次年度は群馬昆虫楽会では保護活動を主体とする事を辞退する結果となってしまった。残暑の続く夏が終わり早い冬が近づいていた。たった1枚の天然記念物を示すヒメギフチョウの赤文字横断幕がシーズンを過ぎても深山バス終点ロータリー前に雨に打たれて揺れ動いていたのがまだまぶたの裏に見える。さて、赤城姫のこれからはどうなるであろうか・・・・・。
 阿部一彦氏と私は赤城姫のことが気がかりで仕方がなかった。酒をくみかわし赤城姫の話で夜の更けるのを忘れていた事がたびたびあった。「二人でやってみようか・・・・・。」1987年、春、相変わらず二人は酒を飲み、姫の恋唄を歌っている内に淡雪が降り、スジグロチョウ便り(近年ではモンシロチョウ便りでなくなっている)も届き、いよいよじっとして居られなくなって行動開始となった。もはやタイムリミットである。馬鹿な男儀が腹の中でムズムズしてきた。「やるしきゃない・・・・・!」ある政治家さんのお言葉を借りよう。先ず県文化財保護課に問い合わせるが、具体策なし、との冷たい解答だ。群馬昆虫楽会としての動きは、これまた無さそうだ。暗い重い鉛色の日本海の冬景色が脳裏を横切る。そこで思い切って心当たりの蝶々仲間や自然好きの仲間に往復ハガキで呼びかけてみたが返答少し、「アベちゃん、俺はおりるよ。」「もう少し待ってみよう」阿部一彦氏に説得されている内に結構反響があり17名もの賛同者が集まった。「よし、ヤルカー!」ここで話は最初のページに戻るのである。419日、日曜の午後、「会とすると問題が大きくなるので、集まり、にしよう」「ではどんな集まりだ・・・・・。」「赤城姫を愛する集まり」松村案に一同賛成。こうしてかくなるあつまりが誕生したのであった。1987年(昭和62年)419日。
(1)
  
赤城山にいつまでもヒメギフチョウが舞い続けられる事を願う者の集まり。
(2)
  
ボランティア精神で保護活動を行い、実態調査をし記録を残す。
(3)
  
各自、自由な活動を主に、自然と人間とのつながりと調和を見出す。
 こんな簡単でまた難しい目的を持って、気楽に楽しくやろうというのが主旨である。また蝶に限らず、草花、鳥、虫、自然を好きな人は誰でも結構、仲間になれる。不定期に「赤城姫ニュース」を発行、時々勉強会や資料集めをやり知識向上もはかっている。
「赤城姫の集まり」誕生説を書くのに、えらく遠まわりしてしまったが、赤城山のヒメギフチョウの最近の動きについては、やはり簡単には書けず一連の過程をのべなくてはいけないと考えた。そして今、赤城姫を愛する仲間達は、赤城村深山地区との交流を通して身近な自然の大切さを、じかに知り合うべく、マスコミの間でしきりに自然というものがうたわれているが、本当の自然とはどんなものか、人と自然との対話を見出すべく微力ではあるが、たかが小さな蝶々から知るはかり知れない自然の不思議さを、村の人達と解いていきたいと願ってやまない。そこに「赤城姫」をいつまでも舞い続けさせる第一歩があるような気がしてならないからである。