赤城姫の歴史(仮説)               松村行栄

T,はじめに
 「赤城姫の保護はなぜ必要なのですか。?」と聞かれたらなんと答えれば良いだろうか?「関東地方では群馬だけに住んでいる蝶だからです。」?ではゴマシジミ、オオゴマシジミ、クロツバメシジミ、クロヒカゲモドキ等はどうなるのだろうか。これらの蝶も局地的に住む貴重な種類である。それでは「数が減って絶滅しかけている蝶だからです。」?これでもツマグロキチョウ、クロシジミ、シルビアシジミ等はどうなるのだろうか。これらの蝶は群馬県内で見るのはもう不可能に近い程激減している。どう答えても一般の人を納得させるにはインパクトが無い。それはなぜだろうか。赤城姫の存在は我々の努力の甲斐もあって徐々に一般の人にも知られるようにもなってきた。しかし、その存在はまだ人々の生活の外にあり、知識としての存在が認識され始めたに過ぎない。この知識を保護の対象としての存在に高めていくためにはどう答えて行ったら良いのだろうか。私は群馬の歴史の中で、また人々の生活の中で赤城姫がどういう存在なのか、それを答えていかなくては最初の質問の納得できる解答にはならないだろうと考える。今回、赤城姫の歴史を群馬の歴史、また赤城山の歴史とダブらせる形で私なりにまとめてみた。内容はまだまだ不十分であり、専門家の目から見ると誤りも多いかも知れない。が、赤城姫をどのような目で見ていったら良いか、どのようにアピールしていったら良いかの参考になればと思い仮説として提案させていただく。今後、「赤城姫を愛する集まり」の活動の中でより完全なものに仕上げていきたい。皆様の忌憚のないご意見をお願いしたい。

U,ヒメギフチョウの歴史
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ヒメギフチョウの分化
 赤城姫の歴史に入る前に、ヒメギフチョウとはどんな蝶であるか少し考察してみる。専門家は細かいところまで細心の注意を払って考察するが、ここでは素人の気楽さで大雑把に全体を思うままに見渡してみたい。この部分は今後の科学的な研究が望まれる部分でもある。ギフチョウ属、シボリアゲハ属の共通の祖先が中国雲南省で生まれたのは数千万年前のことである。この共通の祖先の生まれた中国雲南省は数千年前、我々日本人の文化の基礎にある照葉樹林文化が発祥した地でもある。この文化の東への広がりはギフチョウの分布と一致する。この話の始めにおいて日本人の文化とギフチョウ属に深い関係があることに何か因縁めいた物を感ずるのは私だけであろうか。その後ギフチョウ属は東に、シボリアゲハ属は西に分布を広げていく。ギフチョウ属の中でこの共通の祖先に最も近いのがオナガギフチョウであり、シボリアゲハ属で一番近いのがウンナンシボリアゲハであろう。写真で見るかぎりこの両種は非常によく似ている。オナガギフチョウは南に分布を広げながらシナギフチョウに、又、北へ分布を広げながらヒメギフチョウに分布していく。ヒメギフチョウ(朝鮮型)はさらに北へ移動しヒメギフチョウ(ウスリー型)に、それから日本に渡りヒメギフチョウ(東北・北海道型)に分布していく。ヒメギフチョウ(朝鮮型)が直接日本に渡ったものは、ギフチョウへと分化した。ヒメギフチョウ(朝鮮型)の写真を見ると尾状突起が長く、幼虫の環節間膜が黒色で気門が黒色の物があることなどからギフチョウの直接の祖先であることが強く窺われる。又、同じヒメギフチョウ(朝鮮型)の中に幼虫の環節間膜が白色で気門が黄色の物があることなどからヒメギフチョウ(東北・北海道型)の間接的な祖先でもあることも認められる。つまり、ヒメギフチョウ(朝鮮型)が日本のギフチョウ属の共通の祖先と考えても良いであろう。ヒメギフチョウ(信濃型)については後程考察する。それではここで日本におけるギフチョウとヒメギフチョウの分布についてもう少し考察してみる。日本の照葉樹林の分布を見るとギフチョウの分布とよく一致する。ここにはギフチョウの食草であるカンアオイ属の植物が多数生息している。(一部日本海側でギフチョウの分布が北へ延びるが、これは豪雪地帯に適応したコシノカンアオイの分布と一致する。)それではギフチョウは照葉樹林の蝶だろうか。ギフチョウの産地の潜在自然植生と現存植生を調べてみる。産地の潜在自然植生は確かに照葉樹林であるが、現存植生はそのほとんどが落葉広葉樹林になっている。それはなぜだろうか。分布は照葉樹林と一致し、照葉樹林の下草として進化したカンアオイを食草とするギフチョウが、なぜ落葉広葉樹林を好むのだろうか。照葉樹林は陰性であり林床に光が届かず、下草が生育しにくい。しかし、何かの原因で木が無くなり林床に光が届く様になると下草は一度に元気を取り戻す。様々な花も咲くようになる。元来ギフチョウは照葉樹林の中のこの様な開けた場所を住家としていたのではなかろうか。ギフチョウが日本で勢力を広げ出した後氷期は、照葉樹林の北上の中、縄文時代人が落葉広葉樹林を残そうとしていた時代であった。落葉広葉樹林は彼等の焼畑のあとに最初にできる林である。そこは照葉樹林の中に開けた場所を提供する。このような人の手によって残された落葉広葉樹林がちょうどギフチョウの元来の住家と似た環境であり、そこで大いに勢力を延ばすことができたのではないだろうか。ギフチョウは照葉樹林の蝶である。それではヒメギフチョウの場合はどうであろうか。ギフチョウと同じように開けた場所を住家としていたヒメギフチョウも、分化を繰り返す途中で落葉広葉樹林の下草として進化したウスバサイシンに食性変換をした。そして落葉広葉樹林に住み着き、落葉広葉樹林の蝶として勢力を延ばす様になる。
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ヒメギフチョウ(信濃型)の分布
 次にヒメギフチョウ(信濃型)について考察する。現在のギフチョウ、ヒメギフチョウの祖先は新生代第三紀末期から第四紀にかけての全世界的気候の変動、地質活動の中で前進後退を繰り返しながら、分化を繰り返してきた。第四期になってからは、ギュンツ、ミンデル、リス、ウルムの四回の氷河期があり、この間は海表面が下がった為に多くの生物が日本にやってきた。ギフチョウ属もこれらの生物達と一緒に日本にやって来たのだろう。逆に間氷期には海表面が上がり生物の往来は遮断される。それではヒメギフチョウが日本に来たのはこの中のどの時期だろうか。リス氷河期(15万年前)とウルム氷河期(7万年前)の間には下末吉海進があり、海の往来は遮断される。ウルム氷河期は最も寒かった時期で雪線(年に降る雪の量と、とける雪の量が等しくなる点を結んだ線)が標高にして2,000m位低かった。つまり現在よりも気温が10℃以上も低かった時期である。こんな寒さの中をヒメギフチョウがやって来たとはちょっと考えられない。そうすると下末吉進以前に日本に移り住んでいて、日本でウルム氷河期を迎えたと考えるほうが妥当ではないだろうか。ヒメギフチョウ(東北・北海道型)はウルム氷河期の後で気温が徐々に暖かくなる中で移り住んできたと考えることもできるだろうが、これはヒメギフチョウ(ウスリー型)、ヒメギフチョウ(信濃型)との関係をさらに検討しなければなんとも言えない。少なくともヒメギフチョウ(信濃型)は現在の分布から見て、下末吉海進以前に日本に移り住んでいたと考えた方が考えやすい。(それ以降だと気温の上昇に伴う南下を考えなくてはならない。これは不合理である。)ウルム氷河期が終わり日本の気温は徐々に高くなり、約一万年前にやっと現在の気温になる。先にも述べたようにウルム氷河期には気温が現在より10℃以上も低かった事を考えると、リュドルフィア線は今より相当南にあったことになる。リュドルフィア線を照葉樹林の北限とほぼ一致するとすると、この線は日本の外に位置したとも考えられる。ヒメギフチョウは今よりもずっと南に分布していたのだろう。(ギフチョウはこの時に南から日本に入ってきたことも考えられる。)気温の上昇に伴ってリュドルフィア線も約一万年前に現在の位置になる。その後約五千年前まで気温は逆に現在より3〜4℃高い時期を迎える。この時の照葉樹林の北限は北上し岩手県の中部、青森県の南部位まで到達している。その時ヒメギフチョウの一部は本州中部の山岳部に残る落葉広葉樹林に、又、別の一部は照葉樹林の北側へ押しやられる。その後現在にいたる気温の下降期、本州中部の山岳部に残ったヒメギフチョウは分布を広げヒメギフチョウ(信濃型)として、リュドルフィア線の北側へ押しやられたものはヒメギフチョウ(東北・北海道型)として今の分布を形成した。ヒメギフチョウ(信濃型)はこの最後の分布拡大の過程で、ギフチョウとの雑交を経験したことも考えられる。この気温の変化、植物相の移動の中でサイシンも地域による成分の差を生じ、ヒメギフチョウの味に対する嗜好も地域による特色が生じたようである。

V・赤城姫の歴史
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赤城山の成立と赤城姫
 約50万年前赤城山の基礎を作る活動が始まった。数回の大爆発の後、暫くの休止をしていた山も15万年前から再び爆発的な噴火を開始し、多量の火砕流堆積物を深山方面に積もらせた。この活動がやっと収まるのは4万5千年前である。その後も何回かの噴火を繰り返し21千年前に赤城山は休止期に入る。群馬県にヒメギフチョウが生息し始めたのはこの頃からだろう。2万年前というとまだウルム氷河期の名残りで寒く、旧石器時代人達がナウマンゾウを追いかけていた時代である。この時すでに県北部の標高の高い山々はほぼ現在の姿をしており、県内の各所ではいくつもの火山が火を吹いていた。ヒメギフチョウは北部の冬の寒さを避け、火山の隙間を縫うように県南西部の長野県側から分布を広げてきた。この時すでにギフチョウと交わった経験を持った物達だったかも知れない。1万年前気温は現在とほぼ同じになる。夏の暑さをきらったヒメギフチョウは500〜1000m.の山地に移り住む。県北部の山地に阻まれさらに北へ分布を広げる余裕は無かったようだ。群馬県内で避難地になりえたのはその時、火を噴いていなかった赤城山と、長野県境の山々だけだった。気温はさらに上がり5000年前には現在より、34℃高くなる。縄紋海進のより海は板倉町あたりまでせまり、照葉樹林は今よりも300〜400m.高い標高の所まで迫りヒメギフチョウの住家はどんどん狭められていった。この頃赤城山では三原田遺跡(縄紋中期)に見られるように、人々は林を開いて生活の場を作っていた。ヒメギフチョウも彼等の生活の場である落葉広葉樹林を住家として、この高温期を乗り切った。その後気温は徐々に下がり現在の温度になる。その間も県内では535年の二ッ岳の噴火により黒井峯遺跡(子持村)が埋没したように多くの火山灰に見舞われる。しかし、赤城山の麓では順調に落葉広葉樹林が育ち赤城姫は大いにその勢力を延ばすことができた。赤城姫はこの地で現在に至るまで人々の様々な歴史を見守ってきたのだろう。歴史を考察する場合、自然と人間の間をつなげる資料が非常に少ない。ヒメギフチョウについては、その分化の歴史、分布の特異性等から研究がなされ多くの資料が提示されている。ここで述べたようにヒメギフチョウの歴史を他産地の場合と比較しながら注意深く考察すれば、群馬県の歴史が見えてくる。このような生物は他に見当たらない。赤城姫はこのような群馬の歴史を語る指標としても重要な存在であろう。

<なぜ赤城山の東面には赤城姫がいないのだろうか?>
 この問題については今回ここでは答えが出せなかった。しかし、ひとつの研究の手法として考えていることがあるので紹介しておく。どなたか実証していただけないだろうか。赤城姫はどうも夏の暑さと、冬の寒さ両方を嫌うようである。つまり赤城姫の生息には気温の範囲が重要になってくる。そこでそれを数値であらわす手法がある。それが「暖かさの指数」と「寒さの指数」という考え方である。これは植物が生育できる地域を予測するために提案されたシステムである。「暖かさの指数」とは月平均気温5℃以上の月を、植物の生育できる期間と考え、その期間について、月平均気温から5℃を引いた値を積算して求める。又、「寒さの指数」とは月平均気温5℃以下の月を、植物の非生育期間と考え、その期間について、月平均気温5℃を引いた値を積算して求める。照葉樹林は冬の寒さに弱く、「寒さの指数」によってのみ生育範囲を規定され、指数がー10以上の場所でのみ生育する。逆にブナ林は夏の暑さに弱く「暖かさの指数」によってのみ生育範囲を規定され、指数が85以下の場所でのみ生育する。又この2つの範囲の間の地域ではクリ林が生息する。この考え方を赤城姫に適用するわけである。赤城山周辺の様々な場所で月平均気温を測定し、この手法で整理する。データは学校や観測施設に依頼すればある程度は集まると思われる。が、ただし赤城姫の場合、夏の高温(ギフチョウの場合23℃以上)で蛹が夏眠するのでこれをどう扱うかが課題となる。これがうまくいくば問題の答えがでるのだが!
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赤城姫の衰退
 落葉広葉樹林は人々の生活を支えてきた。木々の実、下草として生えるカタクリやクズ、ワラビはそのまま食料として使われた。様々な動物を育むそこは狩猟の場でもあった。落ち葉や枯れ枝は燃料として、作物栽培の肥料として用いられた。炭を作る技術もこの森から生まれた。ここは正に人々の文化の発祥の地であり、生活の場その物であった。赤城姫はこんな人々の生活に最も近い場所で、人々と一緒に生き長らえてきた生物である。それゆえに、人間の生活に非常に敏感で、人間が生活のパターンを変えたときその影響をまともに受けてしまう。日本人の生活に急激で質的な変化が起こったのは明治時代以降である。その過程は落葉広葉樹林にもおおきな影響を与えた。この変化を地図の上から読みとってみる。国土地理院から5万分の1の地形図が発行されている。この地図の沼田の部分は明治40年に初めて発行されて以来、大正2年、大正14年、昭和4年、昭和20年、昭和27年、昭和34年、昭和40年、昭和46年、昭和53年、昭和62年、に修正版が出版されている。これらを順に見ていくと赤城姫の歴史が見えてくる。明治40年の地図から、落葉広葉樹林は山頂部分と、麓の部分に分かれその間にカヤ原が広がっている。この様子から見ると赤城姫の分布も2つに分かれていたと考えられる。麓の部分の落葉広葉樹林の下には畑が広がってきているものの、まだ広く繋がった林が残されている。この林の中を多くの赤城姫が飛び回っていたことだろう。川の近くには水車がたくさんあり、のどかな田園風景が思い起こされる。この後大正14年の地図に沼田までの鉄道が書き加えられた。だが昭和20年までは畑が少し広くなり、植林が若干増えた以外に林の変化は殆どなかった。昭和27年の地図から:この時代は赤城姫がモンシロチョウのごとく飛んでいたと言われた時である。戦後の復興期の中、鉄道は沼田から先も開通し、畑の開墾、植林が精力的に進められていく。当時の赤城姫の産地を地図上に落としてみた。広がった畑の間に線状に残された落葉広葉樹林が住家となっている。林はまだ幾分の広がりを持ち、村の回りに発達するところをみると、まだ生活の一部として生かされていたことが想像される。畑の上部には植林が広がる。大沼の周りにも産地があり、現在の産地との繋がりはこちらの方が強そうである。昭和40年の地図から:地図の上から水車がなくなった。人々の暮らしが大きく変わりだしたのだろうか。麓の落葉広葉樹はさらに狭められ、カヤ原は完全に埋まってしまった。山頂部の落葉広葉樹林が広がったのは植林によるのか、自然に成長したのかはっきりしない。植林地の手入れが行き届かず下草が成長したためとも考えられる。最後の赤城姫が観察された時である。昭和46年の地図から:ゴルフ場の建設が始まる。麓の落葉広葉樹林は永井を除いて広がりのある場所は無くなる。植林が進み山頂部の落葉広葉樹林も分断されていく。赤城姫不在の時期である。昭和53年の地図から:最後に残された麓の落葉広葉樹林がゴルフ場に変わった。面であった落葉広葉樹林が線になり、いまでは点に成ってしまった。こうなると若し数頭の赤城姫が各点に残っていたとしても、それらは互いに血の交換が出来ずやがて死に絶える運命にある。赤城姫の衰退の中で採集と言う行為がその死を若干早めさせた事はあったかもしれない。しかしこの様に地図の上で見てくるとそれは歴史の必然であったような気がして成らない。昭和62年の地図から:昭和27年の産地をもう一度地図上に落としてみた。産地のうえを関越自動車道が走っている。又、ゴルフ場が出来た。赤城姫の住家が今日も一つ一つ少なくなっていく。赤城姫の歴史を見ていると群馬県の歴史が見えてくる。人々の生活が見えてくる。これは赤城姫が我々の生活の最も近い所で生活する動物だからである。つまり赤城姫を研究すると言うことは、取りも直さず我々の生活を見直すことになりはしないだろうか。そういった意味からも赤城姫は我々にとって貴重な存在である。

W, まとめ
 本文を纏めるに当たって、赤城姫の歴史を知ることにより保護の必要性が幾らかでも明確になってこないかとの期待を抱きながら筆を進めた。一つの生物、つまり赤城姫を通して人々の歴史、生活を考えると言う試みは余りにも大胆すぎるかも知れない。が、赤城姫は十分にその可能性を持った生物である。その見方によっては、群馬の歴史を語る上で一つの指標となる生物であり、また、我々の生活の基盤を見直すための資料となる生物としてその存在の重要さを再確認できる。まだまだ調査不足で十分に理解されがたい事も多いだろうが、赤城姫を考える一つのスタンドポイントとして興味をもって頂ければ幸いである。今後さらに検討を進めていきたい。とは言っても今回の文は、あまりにも赤城姫の立場に立ちすぎたようだ。畑の開墾、植林、ゴルフ場の建設、高速道路の開通、そのどれをとっても時代の必然であった。生活の変化に伴い不要となった落葉広葉樹林をより収益性の高い利用に向ける。これは当然の事である。その過程の中で赤城姫が衰退していった。これもいたしかたのないことかもしれない。しかし今、戦後の高度成長の歪みが各所で現れ、世界的な環境の保全が叫ばれる中、この様な開発をさらに続けることが今後のために得策かどうか、いま一度立ち止まって考えるときではないだろうか。生物が住める林は生きている林のみである。赤城姫の暮らしていた昔の落葉広葉樹林は人間の生活の中に生きていた。この事をもう一度考え直す事により未来へ向けての発展の中で、赤城姫が生活できる場を確保する事の意義がはっきりしてくるのではなかろうか。ここでこれを具体的に押進められるのは、そこに住む人々のみである。安価な用材の輸入で杉、檜の用途は減り、地元の生活は変わりつつある。その中で赤城姫が飛べる環境を残すことの重要性、今残された少ない自然を未来への財産として残すことの重要性を地元の人々と一緒になって考えていきたい。私は健全な森の育成、村の発展の中で、今生き残っている赤城姫たちが大いに勢力を盛り返すことを祈っている。これからもこの事を念頭において調査、研究をすすめたい。


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