昭和22年9月15日、カスリーン台風により、この地の上流前山中山後入の各沢から流れ出た土石流が、沼尾川周辺の集落を飲み込み、死者83名、負傷者14名、流失家屋167戸、田畑山林の流失埋没面積570ヘクタールの大災害に見舞われた。
 この碑は、災害から50年の節目にあたる平成9年に、犠牲者の追悼と災害復旧にご尽力いただいた方々に敬意を表し、このちの平安を見守るために建立された。

台風の進路と被害者数
 

沼尾川と前入沢との合流地点の惨状。右は現在のようす。
 

前山通り仏念付近の沼尾川土石流のつめあと。右は現在のようす。
 

泥流に呑み込まれる村に茫然    角田峯一さん(深山)
 カスリーン台風は、
914日から17日にかけて紀伊半島をかすめ三陸沖にぬけ、上陸こそしなかったものの、数日前から秋雨前線を刺激し、赤城山周辺に豪雨をもたらした。いわゆる雨台風で、15日午後に大災害を引き起こした。前日の朝から、かなりの大雨で、午後には滝のような降りになり朝まで続いた。
 このあたりの地形は、赤城山を背景に裾野の低いところに利根川が流れ、深山地区には利根川に合流する上流の支川、沼尾川が流れている。また、それに合流するいくつかの沢がある。沼尾川は、すでに増水し、消防団員が警戒に当たっていた。普段は、湧き水程度の前入沢も午後になると濁流が増し、小さな土橋が流されるかと思われたその時、突如山のような、二階家の屋根よりはるかに高い土石流が目の前に襲ってきた。とっさに南の方へ逃げる途中、後ろを振り返ると、すでに我が家は影もなかった。村中が濁流に呑み込まれ、ただ茫然とするばかりであった。
 数分遅れて沼尾川中山沢も土石流が氾濫し、深山地区の谷一杯に泥水が溢れ、死者
31名、流出家屋76戸という大災害になった。田畑・家屋・家畜ともに押し流され、地区の割くらいが川原となった。中には、一家全滅してしまった気の毒な家もあった。助かった人も、不幸にして流された人も運命は、紙一重の差だったと思う。私もあんなスピードで土石流が襲ってくるとは夢にも思わなかった。
 その後、長い歳月にわたり、建設省、営林署、県などの莫大な予算と地域住民の協力で今日の復興がなされた。歳月とともに被災体験も風化され、人間関係も都会化しつつあるが、家や肉親を失った被災者の無念は薄れることはない。情報の行き渡る時代ではあるが、急傾斜の谷が数多く合流する深山地区に住む限り、あの災害を教訓として、幾百年に一度あるかないかの災害に対しても備えを怠ってはならない。


あの大惨事を思い起して

     石田栄内さん(長井小川田)

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15日は朝から沼尾川も増水し、消防団が全員出動して護岸の崩れた所に太い竹を流して濁流の流れを変えていた。15日は小川田弁天様の秋祭りで、青年団はマッカーサー踊りの当日で、毎晩姉兄も練習していた。お昼には、消防で出ていた兄も戻り、普段とかわらず家族全員がそろって団らんの一時を過ごした。
 しかし、大雨は降り続き、午後二時ごろから水位がどんどん増して来たので、父が上の農事倉庫に衣類を運んだ。そこは昭和
9年の水害でも助かった50mくらい離れた高台だった。みんなで運んで戻り四時ごろ、突然大きな地響きと夕立のような大きな音に、私と叔父は驚いて裏の田んぼの水路を飛び越えた。両親と兄、姉二人は、前は本流後ろは田んぼの水路という高台に取り残された。父が大声で「ハシゴを掛けろ、縄を投げろ」と幾度も叫んだ。私と叔父でロープを持って、田んぼのあぜ道を両親と兄姉のいる10mくらいそばまで近寄った。その時、上流から高さ20mもあると思われる土石流による山津波が押し寄せてくるのが見えた。叔父の「逃げろ」の大声で引き返すと、足下まで泥水にさらわれた。その瞬間、後ろを振り向くと、我が家も農事倉庫も何もかもなくなっており、南雲の谷は大きな石の川原と成り果てていた。
 残された私たち兄姉
4人は、叔父に励まされ親戚の家へ行った。夕方には真っ赤な太陽が今までの惨事がうそであったかのように南雲の谷を照らしていた。
 あの山津波が、私の両親をはじめ83名の尊い人命を奪ったのだ。大雨と台風の恐ろしさを身を持って感じ、村をはじめ大勢のみなさんに大変お世話になったことを、私たち被災者はあの日から
50年たった今でも忘れることができない。それと同時に子や孫たちにこのような悲惨な思いをさせぬよう後世に語り継ぎ、二度とこのような惨事が起こらぬよう願うものである。

     「カスリーン台風から50年 忘れられぬあの日」群馬県 より



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