群馬県指定天然記念物に

 

◎群馬県教育委員会告示第4号(文)
 群馬県文化財保護条例(昭和51年群馬県条例第39号)
第38条第1項の規定により、群馬県指定天然記念物を次の
とおり指定する。
  昭和61年3月7日
                      群馬県教育委員会
                      委員長 斎藤武二

1.名称 ヒメギフチョウ
2.所在地 群馬県下全域
3.沿革及び内容
  ヒメギフチョウはアゲハチョウ科の蝶で、北海道から
 本州の中部地方にかけて局部的に生息し、関東地方では
 本県が唯一の生息地を有する。サクラの開花期に発生し、
 カタクリやスミレ類などの草花から吸蜜し、幼虫はウマ
 ノスズクサ科のウスバサイシンを食草とする。
4.指定理由
  「指定等の基準」(昭和52年教育委員会告示第1号)
 第6の3の(1)のイ及びウによる。

(上記告示の4に関わる規定)

3 天然記念物
次に掲げる動植物及び地質鉱物のうち学術上貴重で、群馬県の自然を記念するもの
(1) 動物
イ 特有の産ではないが、日本著名の動物としてその保存を必要とするもの及びその棲息地
ウ 自然環境における特有の動物又は動物群聚
○群馬県のヒメギフチョウの生息状況の変遷

1940年、田中恒司氏が勢多郡敷島村見間入(現・渋川市赤城町)で 、ヒメギフチョウ
 の生息を確認する。現地は、その後ヒメギフチョウの生息する環境ではなくなった。

ついで、赤城村深山(現・渋川市赤城町)の生息地が明らかになったが、確認時期、
 確認者は定かではない。1947年のカスリン台風で大きな被害を受けたが回復 し、
 1950年頃は、かなりの人の知るところとなった。

赤城山の外輪山の内側 、大沼付近でも確認されている。(1952年の採集標本あり)

深山は、1955年頃からの昆虫採集ブームとも相まって、採集者でいっぱいになり、
 卵、食草まで持ち去られる状態が続いた。
  さらに、植林されたスギの生長、雑木林の伐採、スギ林の林床がシイタケ栽培に利
 用されるなどの悪条件が重なり、1967年を最後に消滅したと考えられた。

その後も鈴ヶ岳、鍋割山などで、散発的に見られることがあったが、ごくまれな記録
 であり、風などの影響も考えられるので、対外的には赤城山のヒメギフチョウは絶滅
 したということになった。

その後、15年間ほどは、赤城のヒメギフチョウは話題にのぼらなくなったが、生息地
 の確認は県内の研究者によって続けられていた。

1965年春、沼田市横塚町愛宕山で県立沼田高校生物部の生徒がヒメギフチョウの
 生息を確認。1966年、野焼きにより生息地が消滅する。

1968年、子持山山頂で風に吹き上げられた固体が採集される。以後、若干数が毎年
 確認されたが、生息地不明のまま1973年を最後に姿を消した。原因は不明であるが、
 上越新幹線の大規模な工事が行われていた時期に一致する。

利根郡昭和村長者久保にもかつて生息していたという。十二ヵ岳に県立利根農林高
 校の生徒が移住させたのはここのものであった。

長野県 境、神津牧場附近。僅かながら確認されるが、長野県佐久地方のタイプであ
 る。

1981年の春、大橋健司氏によって、鈴ヶ岳西面の生息地が確認されたが、保護とい
 う観点から極秘にして、発表は差し控えた。

1983年ころ、林道が生息地まで開通し、新たな確認者が増えてきて、全国的に知れ
 渡る結果となった。

1984年までは採集者も少なく、個体数も非常に多かったが、1985年の発生期には、
 採集者が大挙しておしかけ乱獲される状況となった。

1985年4月30日、乱獲の状況が県(教育委員会文化財保護課)にも情報として流れ、
 担当者が現地視察調査を行う。

1986年3月、群馬県教育委員会は文化財保護審議委員会にかけ、急遽、県天然記
 念物に指定した。

1988年、発生期に確認できた固体は全部で、8♂1♀というまことに淋しい結果で
 あった。さらにウスバサイシンも激減していた。

参考文献:日本産蝶類の衰亡と保護(日本鱗翅学会編) 「群馬県赤城山付近におけるヒメギフチョウの衰亡」 布施英明・文より